異常を受け入れてもらわないといけない
昨日、私は旦那とさくらんぼ狩りバスツアーに行った。
そこで、私は病気になる前の”普通”の私に戻ったかのようだった。
少しバスツアーの話をしよう。
バスツアーでは行動時間が決まっているが、それに対して「早くしなきゃ」と言う強い焦りは無かった。
いつもの私なら分刻みで時計をチェックし、ソワソワしながらの観光となっただろう。
そして、なんと私たちは買い物に手間取り、集合時間に遅れてしまった。
これは普段の私にとって大罪だ。
その場で頭を抱え込み、「声」に促されるまま謝罪の言葉をわめいただろう。
しかし、そんなことはなかった。
「いや~、すみません!てへへ」くらいの気持ちで座席に戻ったのだ。
そう、”普通”の感覚だ。
薬が増えたわけでもない。
私は一時的に”普通”と言う幸福を手に入れたのだ。
それと同時に、もはや”普通”ではなくなっていたのだな、と言う絶望も味わった。
普通とは何か。
それは、各個人にとって当たり前のことだと思う。
朝食を食べる人にとって食べない人は異常だし、その逆もまた然りだ。
そして、世間一般で言う”普通”とは、その”当たり前の集合体”なのだ。
回りくどい言い方をしたが、つまり多数派の思想が普通だということ。
個人にとっての普通と、世間にとっての普通は言葉は同じでも意味合いは違うのだと思う。
そして、今の私の”普通”は世間にとって”異常”だ。
普通の人は一人になったくらいで不安で息切れなんか起こさないし、叫んだりもしない。
しかし私にとってそれは普通のことなのだ。
自分の普通が世間の異常になってしまった人はどうすればいいのか。
世間の普通のフリをするのだ。
もちろん、それには無理が生じる。
その無理が負担になって症状が悪化するのだ。
つまり私は、精神病患者の普通を普通だと受け入れてくれる環境での治療こそが寛解への近道になると思っている。
無理に普通の人に紛れ込むのではなく、同じ異常者たちで集まるのだ。
現在、私は私の考え出した結論に割と落ち込んでいる。
現状では救われる道はない。傷を舐めあっていろと言うようなものだからだ。
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