自覚と差別。
私は自分のことを精神障害者だと思っている。
手帳は持っていない。障害年金は申請準備中だ。
精神障害者とはどういう人を指すのか?友人と話したことがある。
ある子は「手帳を持っている人のこと」と言い、
ある子は「健常者と生きてる世界が変わってしまった人のこと」と言った。
また、父は「精神病で苦しんでいる人のこと」と言った。
私も「健常者と生きてる世界が変わってしまった人のこと」のことだと思う。
正確には、「病気になる前と生きてる世界が変わってしまった人のこと」かな。
だから、手帳を持っていようがいまいが、世界が変わってしまった人は障害者だ。
私は障害者だ。私の日常は病気によりめちゃくちゃになってしまった。
健常者が監視に怯えるか?買い物に怯えるか?調理に怯えるか?
2番目のセリフの友人は私のことを障害者とは思ってないと言っていたが、私は十分に障害者になってしまったのだと認識している。
そう、”なってしまった”のだ。私の障害者への差別意識。
なぜ私は手帳をもらわないのか?
私にはメリットに感じることがないからだ。
施設によっては安くなるかもしれないが、それは周りに「自分は障害者です」と知られてしまう可能性がある。
手帳を持つと法律的にも障害者になることになる。
それが怖いくせに、イヤなくせに、障害年金の申請をしているのは矛盾しているけど。
私には選民意識がある。
世界は優秀な人間だけで回すものであり、使えない人間はすべて処分すべきだと。
別にそれは本の一握りの秀才だけを集めようという話ではない。
私のように働けない価値のない人間は不要だと言いたいのだ。
私は世界に必要な人間だと思っていた。
いや、不要というわけでは無いと思っていた。
しかし、障害者になったことで不要な人間になってしまった。
自分自身をそう責めるということは、周りの障害者を差別しているのと同じことだ。
私は、そんな自分の醜さに気づいてしまった。さらに不要な人間になった。
世界には清らかな人間だけで良い。
私のような醜い心の持ち主はいらないのだ。
精神障害者になったことが周りに知られたくない。
でも知って特別扱いしてほしい。そんな矛盾の中で生きている。
私は健常者に戻れるだろうか。寛解することは健常者に戻ったことを指すのか。
そのとき、私はまた世界に必要とされるのだろうか。