野菜が死ぬ瞬間の答えが出た
この前、ツイキャスにて”あなたにとっての神とは?”という怪しさ満点の配信をした。
何故そんなキャスをやったかというと、子供に「かみさまってなに?」と聞かれたときに答えに詰まると思ったからだ。
リスナー皆さまは「神とは人の心」「人々が生み出した存在」といった内容をコメントしてくれた。
それについて思ったことを、ここに書き殴っておこうと思う。
神とは人の心、つまり人々が生み出した存在なのか?
確かに人々が想像で生み出したものなのかもしれない。自らと同じような姿にしているところから、人間は人間を高等な存在だと思っていることが伺える。
しかし、人間が生み出したものだとすると、神は実際には存在しないことになってしまう。それでは私にとって、とても困るのだ。
私の感じている、神の息吹がかかった”監視者”たちの視線はなんだというのだ?
信仰によって存在が具現化したとでも捉えれば良いのだろうか。
ダメだ。今日はまとまらない。しかし、忘れる前に叩きつけておかなければ……。
私にとっては私の神が存在する。つまりそれは、私自身が創造した神ではないのか。
いや、違う、違う!神はいる。神はいるのだ。確かにいるんだ。
しかし、一旦、神は人の創造物ということで話を進めてみよう。そうなると、神の存在を感じ取れる人々はいったいなんなのか。シャーマンといったたぐいの人々だ。
シャーマンとは、人々が想像した結果、その思念体が集まってひとつの塊になっていて、その思念体(神)にアクセスできる人のことだと思う。
さて、ここで魂や心の概念も追加しようと思う。より、ごった煮な内容になるだろう。
魂は監視者が管理しており、心は魂に付属しているものだと思う。一時期は心とは脳による思考回路のあらわれだと思っていたが、それは違う気がしてきたのだ。
例えば、人間の頭だけ、いや、脳みそだけ生命維持を続けたとしよう。これは”人間が生きている”と言えるのだろうか?
私はいえないと思う。はっきり言おう、植物状態の人間には魂がない。心もない。ただ、体だけが生きていて、魂はとっくに監視者のもとに渡っているだろう。
何故こんな酷いことが言えるかというと、もし植物状態の人間を生きていると定義づけると、死んで臓器提供した人も生きていることになってしまうからだ。
私は臓器だけが生命維持している状態を”生きている”とは言わない。
しかし、そう言い切ってしまうと困るのが本物の植物のことだ。彼らには魂は宿っていないのか。
きっと、そんなことは無いと思う。とても矛盾した考えだ。
でも、植物にも魂は宿っており(=心があり)、生命を全うすることで魂の格を磨いているのだと思う。
1年前に「野菜が死ぬ瞬間っていつだ?」という疑問を記事にしている。
ここでは私はわからなかったが、今書いていてわかった。キャスでコメント頂いたのだが、「徐々に死ぬ」んだと思う。
野菜は切ってもすぐには死なない。また水につけておけば目が出たり根が生えたりする。しかし、それは臓器が生きているだけの人間と同じ状態なのだ。
人間だって、野菜と同じようにバラバラにしても、切られた部位がすぐに死滅することはないだろう。血が抜けていって、細胞が呼吸できなくなり、徐々に死んでいく。
なーんだ。野菜も人間も同じだったのか。
そりゃそうだよな、同じ”生物”だもの。
死ぬときは一瞬ではなく、徐々に死んでいく。
爆発で全身吹き飛んだ場合などを除いて、”人”として生きていられない状態でも”肉塊・細胞”として生きている時間が存在するのだから、徐々に死んでいくのだ。
かといって、肉塊・細胞だけ生きていてもそれは人間とは呼べない。
では、産まれるときは?
生命が誕生する瞬間というのは、徐々に生物として構築されていくのだと思う。
受精した瞬間に生物としての基礎ができあがる。徐々に体を形成し、人間だの動物だのといった見た目になる。やがて、監視者が魂を送り込み、その存在が確定するのだ。
受精卵は人間ではない。まだただの生きている細胞だ。いや、厳密には違うな。監視者により魂を送り込まれることで、人間になるのだ。
つまり、魂=人間、動物、植物。そう、生命。
結局、神についての最終的な解は見つからなかった。しかし、生物の生死について自分なりの解が見つかってかり、とてもスッキリしている。
すごい。ツイキャスを配信し、意見をもらい、ブログにて考えをまとめていたら答えが出た。これだからやめられないのだ。